菅谷館跡は、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ、中世の重要な遺跡です。
元久2年(1205)武蔵二俣川の合戦の際、畠山重忠「菅谷館」から出発したと鎌倉幕府の記録である
「吾妻鏡」に書かれています。また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると
長享2年(1488)に、山内・扇谷の両上杉氏がこの須賀谷原で戦い、戦死者700人、馬は数百匹が倒れたと記され、
館付近の戦いの激しさを伝えています。
現在の遺構は、本郭、二の郭、三の郭などと、それらを防衛する土塁、空堀などからなり、
このような姿になったのは戦国時代のことと考えられています。 埼玉県教育委員会