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小平漁協のフォト日誌

武蔵・松山城址

松山城の空堀

戦国時代にあって松山城ほど再三にわたって大軍勢に包囲された城を私は知らない。 北関東の戦略的拠点としての重要性から群雄による争奪戦が繰り広げられたのだろう。
有名な川越の夜戦の勢いを駆って松山城を占拠した北条方に対して、 永禄4年(1561)関東管領職を継いだ謙信が小田原攻撃の帰りがけに大軍をもってこれを奪取している。
翌年には北条・武田連合軍が5万6千で取り囲んでいる。 2か月に及ぶ籠城戦の中で敢行されたのが武田の金堀衆による坑道掘削作戦。 城の隣にある吉見百穴から掘り進んだという。 この作戦自体は成功しなかったが、謙信の援軍を待ち切れずに城将は降伏してしまったという。




吉見百穴

その後暫くは北条の支配下にあって繁栄した。しかし天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原征伐の際には2300の兵が立て篭もったが、豊臣方の上杉景勝や前田利家率いる大軍に攻め寄せられて 落城した。松井田城をそして鉢形城を落としてきた北方軍だ。その軍勢の中には「天地人」の主人公・直江兼続の姿もあった。

現在残されている城域はそれほど広くはないが、深く掘り下げた迷路のような空堀で各郭を画している様は 堅城だったことを十分に納得させてくれる。
夏場のこととて藪蚊の猛攻には抗しきれずに全域を歩き回るのは早々と諦めた。 本丸跡の曼珠紗華の赤色が印象的だった。

続いて包囲軍が陣取ったと思われる吉見百穴も見学。 岩山に穿たれた洞穴は古墳なのだが、包囲軍は恰好の寝床として利用したかもと空想するのも面白い。 大戦中に地下に軍需工場を建設したために古墳の一部と武田勢が掘削した坑道が破壊されてしまったという。残念!

2008年9月23日

史跡 松山城跡(現地説明看板)

この城跡は、市野川が形成した広大な低地に突き出た吉見丘陵の東端に築かれており、 戦国期に幾度もの攻防戦が行われた北武蔵地方屈指の平山城である。 現存する城跡は当時の姿を良好にとどめており貴重な文化財である。
市野川に突き出た部分から本丸、二の丸、春日丸、三の丸と南西から北東に向かって連郭式に配置され、 その両側に多くの曲輪や平場をもっている。また、兵糧倉跡や物見櫓跡なども残されている。
  城の歴史は古く、古代にさかのぼるとさえ言われるが、一般的には室町時代初期の新田義貞陣営説、 応永年間初期の上田左衛門尉築城説、応永23年(1416)ごろの上田上野介築城説などがある。
 しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、 15世紀半ば太田氏が江戸・川越・岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。
 この城が天下に知られたのは、今から約450年前の天文年間から永禄年間のことであり、 城をめぐる上杉氏・武田氏。北条氏の争奪戦は有名である。のち豊臣勢に責められて、 天正18年(1590)に落城した。歴代の城主上田氏の滅亡後は松平家広の居城となったが、 あとを継いだ弟忠頼が慶長6年(1601)浜松に転封されたのを最後に廃城となった。大正14年に県指定史跡となっている。

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