武田勝頼の「素肌攻め」で知られる膳城址を訪れた。
人々に動揺を与えないためにあえて鎧兜を着用せずに平服で巡視中の武田軍が膳城付近を通りかかると、
たまたま城内では酒盛りが行われており、酔った将兵が喧嘩口論の最中だった。
引き上げていく武田軍を見た城兵が襲いかかってきたので、逆に平服(素肌)のまま攻め込み落城させたという。
城構えや濠の深さを見る限りそんなに簡単には落とせそうもない城に見えるだけに、
この緊張感の無い滑稽な落城物語に首を傾げた。
膳城址は、兎川と湧水による湿潤な谷地の間の丘陵性台地の先端部に位置する。
南北約550m、東西約300mほどの範囲の中に濠や土塁をめぐらし、本丸の他、数区画からなる郭を形成している。
この城の築城年代は明らかではないが、鎌倉時代の文書に既に「善」氏の名が見える。
しかし、この膳城に居城していたかについては明らかではない。
その後、室町時代から戦国時代にかけての文書にも「善」氏は度々登場する。
戦国時代には、関東地方の覇権をめぐる北条、上杉、武田の戦記物に度々「膳」の名が現る。
現在見ることのできる膳城の姿が形成されたのは、この戦国時代末期と考えられる。
特に天正8年(1580年)武田勝頼による東上州侵攻の際の、膳城をめぐる攻城戦は「膳城素肌攻め」として著名である。
膳城はこの戦いの後、廃城となったと伝えられる。本丸周辺の濠、土塁等は当時の姿を良く残している。