池波正太郎の時代小説「剣の天地」の中に北条の攻撃を受けて落城する山上城の話が出てくる。
箕輪城の長野業政を滅ぼさんと大軍をもって上州に侵攻した北条勢が長野方
の大胡城や山上城にも押し寄せてきた。
大胡城を守る上泉秀綱は山上城の山上氏秀にいったん平井城
まで共に退いて戦機を窺うよう勧めるが、
氏秀はこれを聞かずに秀綱を臆病者呼ばわりして城に立て籠もる。
しかし、結局は敗れ、城兵は全滅したにもかかわらず自分一人だけが逃げ延びたという。
(でも、これは史実ではなく小説でのこと)
二の丸、本丸に朽ちたまま打ち捨てられた遊具と、
おそらく植えっぱなしのままに咲いたスイセンの花の清々しさが対照的。
そして何よりも、腰郭に群れて咲くカタクリの花が印象的だった。
山上城は鎌倉時代から流行した館造りの本丸を中心として、同様の長方形の郭を組みあわせた南北約約650m、
東西約220mの細長い丘城である。
北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸と並び、ふたつの堀切りを隔て、高さ約5mの物見台を持つ南郭へ続き、空堀・帯郭・腰郭が渦状にめぐっている。
更に、東の蕨沢川、西の山田川浸食による谷地が堀の役目を果たしており、巧妙な手法によって築城されていることがわかる。
この城は、田原藤太といわれた藤原秀郷の子孫である五郎高綱が山上の姓を名乗り居城とした。高綱の子、太郎高光は源頼朝に仕え、
上杉氏が関東管領の頃は、由良氏・園田氏・桐生氏とともに東上州四家として、重要な役割を果たしていた。
北条・武田・上杉氏などの群雄が割拠した戦国動乱のなかで、戦国時代末期の天正18年(1580)廃城となった。