マンションの窓から眺められる丘陵に南北朝時代の山城跡があることを知って早速出かけた。
遠出ができない時の散策には最適コース。戦国時代の山城歩きのテーマからは外れるが、今回は健康ウオークということで。
家族連れで賑わう観音山ファミリーパークから入山。
ファミリーパーク建設のために地形が変えられたのか、遊歩道から入っていきなり本郭から攻める形だ。
本郭から二の郭、三・四・五の郭と、尾根筋を下りながら連郭式の城址をたどる。
幾つかの堀切や竪堀、土橋、腰郭の遺構らしき形状を認めるも、自然地形なのか人工によるものか定かでない。
実はこれが南北朝期の地形を活かした山城の特徴なのだとか。
応永5年(1398)、後醍醐天皇の孫尹良(ただなが)親王は、信濃南朝方の橋頭堡である寺尾城に拠り、新田一族の世良田政義の支援をうけて、
退勢の挽回をはかったが、同19年平井城主上杉憲定に攻略されて落城、親王は信州諏訪に逃れたと伝えられている。
南北朝時代末期の城堡は、打ち続く戦乱により、急速な進歩を遂げ、千早城型の天険を利用した堡塁が生まれた。
寺尾城も同様な山城で、上城・中城・前城それぞれ4km距てて配され、丘陵一帯をおさえていた。
これによってまもられていた中城の北の「館」が、尹良親王の館と考えられる。
姥山は皇子につかえた姥の居た処と伝えられ、この地の墓石に菊水の家紋も残っている。