ここ数日の陽気で草木が一気に勢いを増した。今シーズンの山城歩きもそろそろ終わりだ。
だが未練がましく房総里見氏発祥の地とされる高崎近郊にある里見城を訪れてみた。
戦国期には信玄に攻め落とされた箕輪城
の支城だ。
全体的にはコンパクトな縄張りだが崖端城の特徴を良く残しているようだが、
堀切や土塁は草藪に覆われ、草木に遮られて薄暗く進退さえもままならない。
やはり山城歩きは草木が葉を落とす冬場限定の楽しみのようだ。
先日、松井田城で出会った宮坂先生も今頃は何処かの城址でご苦労をされていることだろう。
それとも、この程度のことはモノともしないかも。
里見城は、新田義重の子義俊が新田氏の所領である里見郷に居を定め築城したものと伝えている。
義重は所領の里見郷を義俊に譲りこの城を所領の西の護りの拠点にしたといわれている。
以来、義俊は里見という地名を氏として「里見義俊」と称した。
里見氏10代家基が嘉吉元(1441)年結城合戦で戦死し、
その子義実が房総に転出するまでの290年あまり里見氏はこの城に依拠した。
本郭は東西100メートル、南北70メートルほどの方形で、
北面は里見川によって形成された崖に守られ、
東南西の三方向は高さ2.5メートルほどの土居が巡らされている。
土居に続いて南西方向には堀切を施し、
外郭との間を分離して本郭の防御にあてるなど山城としての遺構が比較的よく残されている。
南北朝時代に南朝の雄として活躍した新田義貞は幼少の頃、里見の地で育ち、
長じて新田宗家の養子となったという説が里見地域では定着している。
義貞は幼名を里見小五郎と称していたといい、その幼名に因んだ小五郎谷戸、
小五郎橋、医者が清水、安養寺などという呼称が残されている。
里見氏の菩提寺中里見の光明寺には、里見墓域と称する墓所があり里見氏累代を手厚く供養している。墓域には里見氏累代の供養塔のほか、石殿や宝篋印塔の部分などもあり、暴走里見氏ゆかりの延命寺から贈られたという緋寒桜もある。