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大胡城址

大胡城址

大胡城は北条(きたじょう)高広という上杉謙信配下の武将が居た城ということで印象にあった城だ。 赤城神社の名水を汲みに行ったついでに立ち寄ってみた。
 この北条高弘という武将、もともとは新潟の柏崎出身。 一時は武田信玄の調略に乗って謙信に反旗を翻すが、何故か許される。 謙信の関東進出にあたっては厩橋城主に任ぜられ、上杉方の関東支配の総責任者となる。 そして今度は小田原北条氏と通じて再び背くが、越相同盟の成立によって謙信に許され厩橋城に復帰した。 その後、高広は厩橋城を子の景広に譲り、自身は大胡城に隠居したと言われている。 謙信が没すると出家したが、上杉家の後継者争いの御館の乱では小田原北条氏の血筋を引く景虎方に味方して敗れている。
謙信に二度背いて二度とも許された北条高広、ちょっと興味をそそられる武将だ。

2月11日


大胡城址(現地説明看板)

城跡は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲郭的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、 南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平野部が附加され、南北670メートル、 東西最大幅310メートルの規模を測り、桝形門、水ノ手門虎口、空堀り、土塁等の跡が良く残っている。 城主は、大胡氏および牧野氏であった。大胡氏は秀郷流藤原氏の一族で、東毛の豪族である。 天正18(1590)年徳川家康の関東入部により牧野氏が大胡藩2万石に封ぜられその居城となった。 元和2(1616)年に長嶺へ転封後、前橋藩領となり、酒井氏時代には城代が置かれたが、寛延2(1749)年、姫路へ転封し廃城となった。

群馬県教育委員会・大胡町教育委員会

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