山城跡が公園として整備されるとこうなるという見本のような城址を訪れた。
安中にある後閑城址だ。
例によって旧式なカーナビとアバウトな地図のため公園入口が分からず、
近辺を迷走した挙句にようやくたどり着いた。
駐車場となっている西第三郭から見上げる本郭は予期した以上のスケールと迫力。
これまで藪や立ち木に覆われ、土砂に埋まり、崩落して原型を留めない城址ばかり見なれてきた眼には新鮮。
良く整備復元された城址だ。多少現代的な手が加わっているとは言え、公園なのだから我慢すべきか。
他に訪れる人もいない静かな城址を心行くまで歩きまわった。
後閑城は、嘉吉元年(1441)から文安四年(1447)にかけて、信濃御嶽城主の依田忠政が築いたといわれる。
依田氏は忠政の子政知を経て光慶のとき、箕輪城主
長野業政の女を室としてその翼下となり、
天文七年(1538)に鷹巣城に移ったと伝えられる。
そのあと後閑城には北条政時が入り、さらにのちに新田氏が北条氏を逐って城主になり、
上杉謙信の関東出兵に際しては周囲の武将が上杉方に参陣する中で
武田方に着いたとされる。
山頂の本郭からの浅間山や妙義山の展望が素晴らしい。
後閑城は、嘉吉・文安の頃(15世紀中葉)、信州の依田忠政が築いたと伝えられています。
上後閑の長源寺にある文明2年(1470)10月3日付けの依田信濃入道寄進状もそれを裏付けています。
この城は、後閑川と九十九川の合流地点に突き出した、南北につづく丘陵の末端に築かれた山城です。
この山城は、4か所の堀切で断たれ、南端の最も高い部分に本丸があります。
本丸は南北60メートル・幅約30メートルで、西には階段状に3つの大郭(西第一〜西第三郭)がならび、
東にも階段状に郭(東郭、東郭群)がならんでいます。
枝尾根が分岐していて、それぞれの尾根の基部は堀切で断たれています。
これにより二の丸と南郭は本城から切り離され、いわゆる一城別郭の構造になっています。
二の丸は本丸より約16メートル低く、大堀切に面して櫓台が築かれています。
このたび後閑城址公園整備にあたり、発掘調査を行いましたが、本丸虎口部分の柱穴・二の丸櫓台上の柱穴の他には、
建物に関係する遺構は検出することができませんでした。