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安曇野市明科 塔ノ原城跡

塔ノ原城

安曇野市の旧明科町には城と名の付く戦国時代の山城跡が10城存在するが、塔ノ原城は明科で最大規模の城。 明科には他に砦跡や館跡も多数あって、犀川や潮沢川、会田川を挟んで諸勢力が対峙していたことを窺わせる。
以前、長峰山林道の金玉池付近からの搦手から入ったことがあるが、こちらからだと7〜8分も歩けば主郭。 今回は「明科いいまちつくろうかい?」の明科再発見ウオーキングのイベントとして実施するので、 これではあまりにもあっけなく、そもそも駐車スペースもない。そこで大手口にあたる吐中の集落から登ることにした。
実施に当たっては城址の地主さん5人の了解を取り付け、そして仲間の協力によって登山道を整備、駐車場も確保するとことから始めた。 定員はガイド可能な20名ということにしたが、募集開始1時間で定員いっぱいとなり結局25名で締め切ったが、 その後も申し込みが続き10数名はお断りしたとのこと。来春に第2弾を実施予定。

塔ノ原の築城年代は定かではないが鎌倉時代末期に塔原氏によって築かれたといわれる。 塔原氏は東信の海野氏の一族で川手郷の地頭となり塔原氏を称した。
町史によれば、はじめ大足に館があったが、大足氏に譲り長峰山の西側、現在の明南小学校付近に塔原館を築いたとされる。 しかし私は進出当初の館は吐中の集落に築かれたと推測している。吐中の集落は城のある裏山と会田川とで囲む台地上にあって、さらに右手から下りてくる大浦沢と 左手の丘によって入り口を扼されている。支城のこや城と茶臼山城とともに本城に向かう会田街道を厳重に監視している。
塔原館を築いたのは武田信玄とともに入ってきた海野幸貞ではないかと愚考している。武田氏によって塔ノ原城の役割が会田の本城防衛から安曇野統治へと大きく変わったものと思われる。

この城には天文19年(1550)武田氏との野々宮の合戦に際して小笠原を支援するために村上義清が3000余の兵を引き連れて入城したこともある。
また、天文22年(1553年)武田氏の苅谷原城攻めに際して塔ノ原城は戦わずして自落、その後、武田氏に降伏、武田氏は海野三河守幸貞を城主とし、塔原氏は副将格となる。
天正11年(1583年)海野三河守幸貞は、稲倉城主で苅谷原城を任されていた赤沢清経や小岩嶽城主の古厩氏らと結んで上杉氏に通じて謀叛を企てたが露呈し、 海野幸貞は松本城で誘殺され塔ノ原城は急襲されて塔原氏は滅亡した。

安曇野でも数少ない歴史の残る城跡だ。

塔ノ原城大手口 塔ノ原城主郭虎口 塔ノ原城主郭内部
大手口                     主郭虎口                      主郭内部

2020年12月6日

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