冬場の体力づくりのために始めた里山歩き。
信州の里山を歩いていると、目の前に突然現れる堀切や土塁・石垣等の山城の遺構に驚かされることがある。
緑が蔽い茂る季節には見えなかった遺構が木枯らしの季節には見えるようになるのだ。
戦国時代に上杉と武田の争いの舞台となった信州にはそこかしこに山城がある。
そんな山城を史実と照らし合わせながら一つ一つ訪ね歩く。
冬場の楽しみだった。
群馬にやってきてからは山城が少ないので平城や崖端城にまで範囲が広がり、
「健康づくりの・・・・」というコンセプトからはすっかりズレてしまった。
自分の趣味は釣りやキノコもそうだが、
いったい何処に流れて行くのか?
そんな自分の浮気症を秘かに楽しんでもいる。
群馬県教委の調査によれば県内に中世の城跡は700以上もあるという。
上杉・武田・北条と三つ巴の戦乱の舞台となった上州。
真田幸隆や長野業政といった武将が登場する上野の戦国史は複雑でまた面白い。
それら全てを訪れるべくもないが、せめて代表的な城址だけは見てみたい、
ということで代表的な崖端城の白井城址を訪れた。
さて、この城址も他の史跡同様、積極的な保存策が取られているような形跡はなく、
二の丸、三の丸とも畑地になっていて、二の丸の堀跡も耕されている。
本丸の堀切は深く掘り下げられ土塁として高く積み上げられて守りを固めている。
虎口の桝形部分に僅かに石積みが見られるのみで、意外と広い本丸の周囲は高さ2〜4mの土塁で囲まれている。
本丸内は申し訳なさそうに一部で畑地が耕されているが、
芝生に桜の苗木が植えられていているので公園化されつつあるのかもしれない。
吾妻川の向こうに榛名山を望むことができる景勝地だ。
(もっとも、ゴルフ練習場のネットが目障り!)
土塁の片隅に傾いた三つの祠があった。その一つには何故か大黒天像が祀られていた。
2007年12月15日
白井城址案内板 (子持村教育委員会)
白井城は利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に自然の要害を利用して築かれた城である。
全体が三角形に近い構造で、城の中心である本丸は吾妻川沿いにあって西側は断崖に面しており、
それ以外の方角は高さ3〜4メートルの土塁に囲まれている。北側には桝形門があり、
太田道灌が指導したとの伝承が残る石垣が現存する。本丸を出て深い掘を土橋で渡ると北へ二ノ丸・三ノ丸と続き、
その間にも堀が残っている。三ノ丸の外側には北の守として北郭・金毘羅郭があり、
本丸の南東にはささ郭・南郭・新郭が連なっている。さらに城域の北と東には、
それぞれ北遠構(きたのとおがまえ)・東遠構(ひがしのとおがまえ)の掘があって総郭(城下)を囲む構造になっていた。
なお、城の護りの一部として、玄棟院(曹洞宗)・源空寺(浄土宗)をはじめとする大小の寺院が配置されている。
また白井城の南東には仁居谷城があり、堀跡等も確認されていて両者の関係が注目される。
いつ頃築かれたかは諸説あるが、15世紀中頃に関東管領山内上杉憲実の信任が厚かった
長尾景仲(昌賢)によって築かれたと考えられる。景仲は月江正文禅師を開山とする雙林寺(曹洞宗)や、
「白井の聖堂」と呼ばれる学問所を開いたことでも知られている。
その子孫も白井城やその周辺をめぐる戦国の攻防の中にそれぞれの名を残したが、
天正18(1590)年に豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家に攻略されて開城し、戦国の城としての役割を終えた。
その後は徳川家康の関東入りにしたがい本田広孝・康重が城主(2万石、のち5万石)となり、
この頃に現在の姿に整備されたと考えられる。康重の岡崎移封後は戸田康長・井伊直孝・西尾忠永・本田紀貞と続くが、
寛永元(1624)年紀貞の病没とともに廃城となった。
これ以降の経過は明らかではないが、少なくとも明治時代以降は農地化されていたと思われ、
昭和40年代の土地改良事業においても大幅な地形の改変はなく、堀や土塁などの城としての地形が良く残っている。
なお、平成16年3月には本丸部分が子持村の史跡に指定され、保存と活用がはかられていくことになった。