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信濃高遠城址

織田軍の進攻に対して武田方で最後まで徹底抗戦した高遠城。
その時の城主が仁科盛信。謀反の疑いをかけられて誅殺された仁科盛政のあと、仁科の名跡を継いだ信玄の五男だ。 対上杉の拠点だった大町を治めていたが、織田方の圧力が強まる中、高遠城主となって壮絶な最後を遂げた武将だ。
しかし高遠城の戦いには安曇野や大町の将兵は引率しなかったようで、 高遠城でともに戦って殲滅された3千の将兵はいったいどこの部隊だったのか、そして盛信の安曇野統治はどのようなものであったのか?知りたいところだ。
県歌・信濃の国では「信盛」と歌われているが、これは武田方からの呼び方のようだ。 いうまでもなく武田信玄の「信」、仁科盛政の「盛」から取ったものだが、どちらを上にするか、ここにもせめぎあいは続いているようで面白い。

桜雲橋
桜雲橋

問屋門 本丸の空濠
問屋門                      本丸の空濠


高遠城の戦い(古戦場跡) 現地解説看板

天正10年(1582)2月、織田信長は、信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じて、一気呵成の攻略に転じた。
伊那口からの嫡男信忠の率いる5万の兵の進攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。
時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、幸福を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか3千の手兵をもって敢然としてこの大軍を迎え撃った。古来「要害は必ず兵禍を被る」と言われるが、この城も森の部位か将兵決死の奮戦にもかかわらず、3千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。
この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となったのである。
2014年6月23日

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