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安曇野市・岩原城跡

岩原城跡全景
岩原城跡を望む  (前方の尾根の突起部分が本郭)

   前回は大同寺古薬師跡の薄暗い鬱蒼とした雰囲気と繁茂する矢竹に驚愕してあえなく撤退してきたが、 今回は山岳ガイドの横田さんという強力な援軍を得ての再挑戦。 古薬師跡から正面の段郭を直登するか、それとも東側の尾根を登るか協議の結果、まずは竹藪を突っ切って立岩を目指すことに決定。 悪戦苦闘の末竹藪を突っ切って急斜面に取りつき獣道を拾いながら尾根に躍り出た。
尾根筋は留め山の立ち入り禁止テープが目障りだが快適な尾根道。 三本の堀切跡を過ぎると漸く城域らしくなり、崩れた石塁からは段郭を数えながら登る。 10段ほど数えたところで覆いかぶさるような急斜面が現れ、登り切ると本郭だった。 白樺の木の間から常念岳と横通岳が姿を見せていた。
本郭の背後はお約束の大堀切。角蔵山に続く尾根筋にはまだ何本かの堀切と郭があるようだ。 横田さんは山岳ガイドらしくまだまだ余力があり、角蔵山まで攻め登りそうな気配だったが、 本郭に到達したとたんに降参してしまったような小生の身を案じてくれて、本日はこれで打ち止め。

安楽寺の石積 大同寺古薬師郭
安楽寺の石積                     大同寺古薬師郭

亀尾神社 石塁と段郭
立岩(亀尾神社)           石塁と段郭

岩原城跡本郭 本郭背後の大堀切
岩原城跡本郭から北アルプスを望む                       本郭背後の大堀切

岩原城と堀金氏

    城の主とされる堀金氏がこの地に進出してきたのは大永年間(1521-27)頃のことで、初代の盛公は上堀金に館を構え、詰城として岩原城を築き、南方の狐穴に(青柳)吉左衛門屋敷、北方の下堀金には(黒岩)十郎右衛門屋敷を守りとして置いている。
    堀金氏は天文21年(1552)の平瀬城・小岩嶽城攻撃のために深志城に着陣した際に武田晴信のもとに出仕している。その後武田氏の先鋒として各地に出撃している。
    弘治3年(1557)堀金平太夫盛広の兄・堀金(菅原)利秀は小谷の平倉城攻めで功を上げ千国六ヶ村を宛行われて千国丹波守を名乗っている。二代目の政氏は永禄4年(1561)の川中島の戦いで戦死、三代目の盛広は生嶋足嶋神社の神前起請文に仁科氏の親類被官の筆頭として名が見え、仁科一族の中で重きをなしていたと思われる。
    しかし、それが却って警戒されたのか、天正9年(1581)年頃に仁科一族の渋田見氏との縁組を咎められて追放される。仁科一族の結束強化が警戒されたものと思われる。盛広は越中に逃れて僧侶となり堀金城山歓帰寺を建立している。三男の堀金(菅原)義利は踏入で帰農している。

2014年4月3日

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