第4次川中島合戦の後、奥信濃まで勢力圏を押し上げた武田方が
上杉方の最後の砦ともいうべき飯山城への備えとしたとされる替佐城を訪れた。
本丸直下の駐車場に車を置いて入城しようと準備をしていると地元の人がやってきて、
これから花見の準備のために掃除を始めるので脇のほうに駐車してほしいとのこと。
どうやら桜の名所にもなっているらしいが、蕾はまだまだ固く閉じたまま。
本丸に登る途中でフキノトウを見つけた。
本丸には何の案内板もなく東屋がポツンと建っているのみ、背後には矢竹が群生している。
非常時には矢玉に早変わりしたのだろうか。
周囲の山々からは独立した尾根上に本丸、二の丸、三の丸とそれぞれ堀切で切り離され、
堀切はそのまま帯郭となって周囲に巡らされている。
しかし石積みは無く帯郭や段郭や堀切で構築されており、
謙信の本拠地の春日山城に趣が似ているとの印象を受けた。
下を見下ろすと段郭が何段も築かれており、かなりの兵数を収容した城だと知る。
これまで訪れた北信のどの山城よりも規模が大きく、
最前線基地としての役割と謙信に対する信玄の警戒心の強さを思った。
2007.3.24
替佐城跡(説明看板)
この城は、永禄7年(1564)ごろ築かれたと推定されている。
北信濃の制圧をめざす武田勢とその防衛をはかる上杉勢が川中島平ではげしく争った当時、
武田方の前進基地として重要な役割をはたした。
この城は、上杉方の拠点飯山城へ通じる谷街道(千曲川通り)を、東岸からおさえる壁田城とともに、
西側からおさえるもので、また、北永江方面をへて上杉方の国境野尻城へも備えていた。
この城は、三つの曲輪(本丸・二の丸・三の丸)と、それをとりまくいくつかの帯曲輪・
腰曲輪からなっている。武田氏関係の山城として戦国時代の面影をよく残しており、
また、その整然とした曲輪配や規模の大きさなど北信濃でも有数の城郭である。
こうした史的価値により、その維持・保存をはかるべきであるということから、
昭和57年、豊田村文化財に指定された。
中野市教育委員会