松代藩の初代藩主・真田信之公の次女が如来を祀ったとされる大日堂の脇が登山口。
池や万葉の歌碑が建っていてなにやら庭園風。
姫の名前がたまたま同じだということで気を良くしたカミさんはいつになく元気に登り始める。
急な九十九折りの道を枯葉に足を取られ滑りながら登ること約20分。
樹間に忽然と石垣が現れた。高さは3m程で武者返しの反りがつけられた石垣が本郭を固めている。
本郭からは大蓮華岳をバックにして屋代城址や森将軍塚古墳が眺められ、
杏で知られる倉科の里が温かい陽ざしの中でのどかに広がっている。
本郭の北側には石積みで土塁が築かれ、その下は深く掘り下げられて尾根から切り離されている。
堀切の底から振り返って見上げる本郭の姿はなにやら不気味な凄みさえあった。
石やら矢弾が頭上から降り注がれるような錯覚さえ覚える。
尾根筋をさらに進むと丸い小山が現れた。
山城の遺構と間違えるところだが、説明看板で倉科将軍塚古墳と知る。
5世紀に築かれた県内最高所にある前方後円墳で、長さ78m幅46mと巨大なもの。
山城の域内に取り込まれながらよくもその形状を残しえたものだと感心する。
昔の人はこれを墓だと認識していたのだろうか?
そのまま尾根道を進めば天城山城を経て鞍骨城跡に至るのだが、
次の機会に譲って再び降り積もった枯葉を蹴散らしながらもと来た道を戻った。
鷲尾城跡(説明看板)
この城は、山頂に築かれた中世(15〜16世紀)の山城である。
本郭は東西28m、南北21mほどの不整楕円形をしており、
外壁は板状の石を小口積みにした高さ4mほどの石垣となっている。
南側に入口を設け、また南側から西側にかけて、犬走り状の平坦面を設けている。
東側には、高さ3mほどの土塁と、深い二条の堀切を設け、
東西28m、南北12mの一郭脇曲輪(いちのかくわきくるわ) があり、
さらに三条の堀切を設けている。こうした高い石垣によって本郭を築く、
近世城郭のような山城は他に例がないものである。築城の由来について知るところでないが、
倉科氏によって築かれたと伝えられている。
倉科史跡保存会 更埴市教育委員会