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麻績村 麻績城跡

麻績城跡の老松

境目の小豪族の歴史は悲哀に満ちている。
北信と中信とが接するこの地域は古くから大勢力による争奪戦が繰り広げられ、 戦国期は谷間を隔てて麻績城の服部氏と青柳城の青柳氏がこの地域を支配していた。 武田信玄の北信進出の際には武田方についた青柳氏に対し、 服部氏は村上義清とともに行動して敗れ、上杉謙信を頼って越後に去っている。 麻績城には青柳氏が入り麻績氏を名乗った。
その後、武田氏が滅ぶと上杉景勝の後ろ盾で服部氏が麻績城に復帰する。






麻績城主郭


しかし小笠原長慶が中信に復帰して進出してくると小笠原方に寝返ったために上杉勢によって攻め滅ぼされる。
一方、小笠原方についた青柳氏は上杉方との内通を疑われて松本城に呼ばれて謀殺されてしまう。
久々の陽光に誘われて北アルプスの眺望を得ようと登った山城。
本郭跡からは木々に遮られて展望は得られなかったが、谷間越しに青柳城跡を眺めながら 小城の主の悲哀を思った。




4月8日


麻績城跡
麻績城跡案内(現地説明看板)

麻績城跡は城山(標高940m)と呼ばれる山頂一帯に戦国時代初期に築かれたと推定される規模の大きな山城で、 周辺の要地に数箇の支城を持つ。 服部清信は居館を建てた西側虚空蔵山城の守備を補強するために麻績城が築かれた。
山頂は主郭までは細い尾根道が続き防衛上有利である。尾根道の間に3本の堀がにあり、 最西端の主郭とその東の二郭の間の堀は中でも幅が広く深くて山腹まで下がっている。 主郭の西側―虚空蔵山城の間に何段かの帯郭が設けられ、主要な防衛線であったろう。 東に連なる「のろし山」は上杉・武田軍も使用したと推定される。
麻績城では天文22年(1553)から天正17年(1589)にかけて上杉、武田、小笠原の豪族の間で争奪戦が数度行われた。

麻績村教育委員会

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