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武州・滝の城跡

二の郭外堀 本郭内堀

滝の城は北条氏照の滝山城と北関東を結ぶ交通の要衝であり、氏照の北進策を進める上で重要な連絡拠点だった。南側を柳瀬川と断崖に守られた崖端城で、北側は城山神社のある本郭を囲むようにして土塁や空堀に画された二の郭、三の郭、外郭、物見櫓跡がコンパクトな城域によく残っている。
滝の城は天正18年(1590)の秀吉による小田原征伐と同時期に浅野長政を主力とする豊臣軍により落城し、廃城となったとされる。 滝の城を守備する城兵は、城の南方からの攻撃に備えていたが、予想に反して豊臣軍は北の大手方面から急襲して来たため、あっけなく落城したという。
これが事実だとすれば迂闊の謗りを免れないが、実際にはおそらく一戦することも無く自落したのではないかと想像する。なぜなら南方は柳瀬川と断崖に守られているが、北側は土塁や空堀に画された幾つかの郭で守られているとはいえ平坦(北側の県道から眺めると城はむしろ低地にある)であり、その方面にこそ警戒や備えが必要なはずで、それを怠ったとは最初から戦闘意欲が無かったと言わざるを得ないからだ


2010年11月7日

滝の城 所在地 所沢市城537ほか

滝の城縄張り図

滝の城は、狭山丘陵の一角が低地に向って落ちる急な崖を利用し、東南方を流れる柳瀬川を防御線とした平山城で、その敷地は66,000平方メートルである。 現在でも本丸を中心とした遺構がよく保存されている。
本丸は柳瀬川を眼下に見下す城の東南部に位置し、現在の社殿は櫓台跡の上にある。本丸の北西には空堀をへだてて二の郭的な曲輪があり、城はこの方向にいくつかの曲輪を配したようで、部分的に遺構が残存している。また、大手は、さらに北方に所在していたとみられている。 この滝の城は、北条氏照の持ち城と考えられ、滝山城(永禄13年の戦いの後、八王子城に移る)の支城といわれている。
永禄7年(1564年)の北条氏の清戸番衆交代命令状を見ても、清戸下宿に番所があって固めており、城の防備と密接な関係があったと推定される。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原城攻略の際、落城したものと考えられている。 大正14年3月31日付けで、埼玉県指定史跡となっている。

昭和60年3月 埼玉県 所沢市

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