雨空模様だし出張疲れも残るので遠出は憚られたが根が家にジッとしていられない性分なので、
近場の城跡をということで市内の保渡田城を攻めることにした。
信玄が箕輪城を攻め滅ぼした後、西上野を支配する箕輪城代となった内藤昌豊が築城したとされる城。
なぜ、箕輪城を利用せずわざわざ新たに築城したのか疑問ではある。長野氏の怨霊でも恐れたのか?
遺構で確認できたのは隅櫓だったという天子塚という円墳のみ。古代人の霊は恐れるにたらずとして利用したのか。
すぐ近くにある二子山や八幡塚などの前方後円墳を利用した方がより堅固な城を築けたと思うのだが、
これまた疑問ではある。
5世紀頃に築造された前方後円墳の巨大さに往時の上野国の繁栄を見る思いがした。
保渡田では城跡より前方後円墳の方が圧倒的に尊重されているようだ。